ガレリオ裁判

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ガリレオ、ついに訴えられる 
  ガレリオはアリストテレス哲学に一生を捧げてきた哲学者たちを非難して敵を大勢作っています。神学者たちのなかには、ガリレオの新発見によってほぼ証明されたかにみえる地動説が、聖書の記述と矛盾していると言って批判する者が多くいました。ルターがコペルニクスを批判する根拠としたのは「ヨシュア記」にある記述です。
        「日はとどまり月は動きをやめた」
これは、そもそもは太陽が不動ではないことを示している、というわけです。
  こうした批判にさらされたガリレオのとった態度はしかし、コペルニクスとは違っていました。大家族の長という立場があり、さらには自分という存在が世に認められないことは我慢できないという生来の功名心の強さがありました。彼はさらに自分の発見の正当性を主張するために大きな労力を注いだため、ついに反対勢力は堪忍袋の緒を切ります。  
  1616年、ガリレオは検邪聖省(以前の異端審問所)に「異端」の疑いありとして、告発されました。先頭に立ったのは、とくにガリレオと激しく論争をしたドミニコ修道会の神父ロリーニでした。いわゆる「ガリレオ裁判」が始まったのです。 理解者もいたガリレオの偉大な科学的業績を、教会はなぜ異端としてしまったのか、そこに光を当ててみたいと思います。

第一ガリレオ裁判
  裁判が始まりましたがガリレオには裁判になったことさえ知らされていませんでした。いまやトスカーナ大公国付き数学者兼哲学者であるガリレオを異端扱いするには、それなりの証拠が必要だったからです。
  ガリレオの意見は次の2項目において、聖書と矛盾しているという結論に至りました。 

①太陽は世界の中心にあって不動である
②地球は世界の中心にはなく、不動でもなく、全体として日周運動(太陽の周囲を公転)をする

 この結論の当否が裁判に委ねられ、第1回ガリレオ裁判が行われました。判決を下すのは、教皇パウルス五世でした。はたして教皇は、彼が裁判長に任命したベラルミーノ枢機卿に、以下のことを命じました。

⑴ガリレオにこれら(筆者注:右に掲げた一と二)の意見を放棄させるように警告せよ。
⑵もし彼がこの警告を拒むようなら、総主任、公証人、証人の立ち会いのもと、この学説と意見を教えることも、擁護することも、あるいはそれを論じることもいっさい差し控えよ、と禁止命令を出せ。
⑶もし彼が従うことを拒むならば、投獄せよ。 

 

裁判長であるベラルミーノ枢機卿を押し退けて総主任セジッツィ師がガリレオに、こう命じました。
  「太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くという意見を全面的に放棄し、今後はこの学説と意見を教えることも、擁護することも、あるいはそれを論じることもいっさい差し控えよ」
  そして総主任は続けました。
「もしこの命令に従わなければ、聖省はあなたを裁判にかけるであろう」

ガリレオは命令に従うことを約束しました。

枢機卿は無罪判決証明書に署名して、ガリレオに渡しました。

こうして1616年、第一回ガリレオ裁判は終結しました。それは一見、お咎めなしとなったガリレオの勝利にも見える結果でしたが、しかし、総主任セジッツィ師が教皇が発した以上の過度な命令を出し、ガリレオが従ったことが、後の大きな落とし穴になったのです。
  また、この同じ年に、刊行から70年以上がたっていたコペルニクスの『天球の回転』がついに禁書とされました。それまでは仮説のひとつにすぎないとされていた地動説が、ガリレオによってもはや無視できない説得力をもつに至ったからでしょう。
  ガリレオとてもちろん、本心から自説を放棄したわけではありませんでした。裁判のあとも望遠鏡で宇宙の観測を続けながら、地動説への確信は膨れ上がる一方でした。コペルニクスは、やはり正しい――しかし、それを正面きって主張することは、いまや禁じられてしまっています。悶々とした思いを抱えながら数年を過ごしていると、不意にチャンスが訪れました。かつてガリレオと深い親交をもち、食事をともにしながら宇宙について語り合ったあのバルベリーニ枢機卿が、教皇に選任されたのです。
  彼ならば、わかってくれるに違いない! ガリレオは歓喜し、ただちに、彼の宇宙観を著作にまとめあげる仕事にとりかかりました。
  裁判のときに下った命令があるので、コペルニクスの地動説を仮説以上のものとして扱うことは避けなくてはなりません。ガリレオは慎重に考えて、その著作を考えの違う3人による対話形式にしました。アリストテレスの意見の代弁者である「シンプリチオ」、ガリレオの意見を代弁する「サルヴィアチ」、そして中立な立場の「サグレド」です。この3人の意見を平等に併記することで、地動説だけに肩入れしているという印象をもたれないようにしたのです。こうして1632年、ガリレオ渾身の作である『天文対話』は刊行されました。

第二回ガリレオ裁判
ところが――。新教皇となったバルベリーニ枢機卿、ウルバヌス8世は、すぐさま『天文対話』に異端の疑いありとして、特別委員会を設置して調査させたのです。委員会は調査結果を次のように報告書にまとめました。
  ――著者ガリレオ・ガリレイは1616年に検邪聖省と次の禁止命令について合意している。「太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くという意見を全面的に放棄し、今後はこの学説と意見を教えることも、擁護することも、あるいはそれを論じることもいっさい差し控えよ」。この著書は、その命令に反するものである――。
  これをもとに委員会は、ガリレオを命令違反の罪で裁判にかけるべきであるとの答申を提出しました。教皇庁はこれをすみやかに受理し、ガリレオは「異端の重大な疑いあり」として検邪聖省からローマへの出頭を命じられたのです。
  特別委員会は、第一回裁判で下したもう一方の命令――いかなる仕方においても、抱いても、教えても、擁護してもならない――に『天文対話』は違反しているとみなしました。セジッツィ師によって恣意的に付加された命令が、ここへきて不意打ちの効果をもたらしたわけです。
  1633年、第二回の裁判は始まりましたが、すべては手続きにすぎませんでした。最初から判事がガリレオの命令違反を指摘し、ガリレオが無罪証明書を提出して抗弁したのに対して、判事は例の「……抱いても、教えても、擁護しても……」の命令にガリレオが合意した公証記録を持ち出し、それが決定的な証拠となって、すべては終わりました。有罪となったガリレオは、地動説は誤った異端の説であると認める異端聖絶文に署名しました。彼に下された処罰は、以下の三つでした。

一、『天文対話』を禁書とする

二、検邪聖省が望むだけの期間、聖省内の牢獄に入る

三、三年間、贖罪のために毎週一回、七つの悔罪詩篇を唱える
  
  なお、このときガリレオが「それでも地球は動いている」と言ったというのは有名なエピソードですが、資料的な根拠はありません。悲劇の天才を英雄的に彩りたいと思った後世の人々の創作であるかもしれません。 
  
 

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